あの噂って本当? 大山の「なるほど」を発掘

地元でもなかなか知らない「へぇ〜」の情報満載。

こちらのコーナーでは、
大山に伝わる様々な噂、伝説などについて、地元通のみなさんに回答いただいています。

地元でもなかなか知らない「へぇ〜」の情報満載。
知ってればちょっと自慢したくなるプチトリビアばかりなのでぜひお気軽にお読みください。

大山をなぜ「だいせん」と読むの?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局

一般的に「大山」と書かれていたら、山陰に住む人以外のほとんどは「おおやま」と発音されることも多いかもしれません。
「山」という字は、「やま」、「サン」、「ザン」、「セン」と読みます。
「サン」は漢音。「セン」は呉音。
呉音とは、日本に古く伝来し、仏教関係の語に多い漢字の音で、深い歴史を物語る象徴的な読み方でもあるそうです。

そこで、全国で「山」を「セン」と読む山を大山町さんが調べたところ、こんな事実が・・・。
全部で70ほどが存在しましたが、そのほとんどが鳥取県と岡山県北部、そして島根県に存在していたのです。
また佐渡島、隠岐島にも存在しています。これは中国や朝鮮から伝わったものらしいとされることから、仏教伝来とも大きな関わりがあるのかもしれません。
この地域に「山」を「セン」と読む民族が住み、その勢力が徐々に拡大していった、そう判断する識者の方もいらっしゃるそうです。大山は、こんなところでも神秘的なストーリーを残しているのでありました。

大山頂上の標高は1709mなのか、1729mなのか? 
どれが正しい?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局 

大山は古代から奈良県の大峰山(おおみねやま)や愛媛県の石槌山(いしづちやま)、岐阜県の白山(はくさん)などに並ぶ原始山岳信仰の中心であったようです。
そのため、明治の中ごろまでは一般の人々の入山も禁止されていました。
入山規制が解かれたのは明治22年のことで、昭和11年に国立公園に制定されたことにより、ようやく大山は広く知られる山になったそうです。

大山の最高地点は剣ヶ峰の標高1729mですが、大山は信仰の山であり古くから弥山(みせん)で祭事が行われ、一般的には弥山の標高1709mが頂上だとされています。また、頂上は人が立てる面積がある場合とされていることと、登山客が登ることのできる最高峰・弥山から剣ヶ峰にかけての縦走路は崩落が進み、危険なので現在は縦走禁止となっていることから弥山が頂上とされています。

また地形図には1711mと記載されたものがありますが、これは平成12年の鳥取県西部地震で地盤が崩壊するまでのものです。国土地理院中国地方測量部では復旧作業を行い旧位置から東方約8mの地点に三角点を再設され、標高は1.2m低下し1709mになりました。(剣ヶ峰には三角点なし)

参考までに、縦走路は昭和3年に造られましたが枡水原から正面登山道などが崩落のため登山禁止となりました。また昭和52年ごろから縦走が困難になり、昭和57年には登山道から外されました。現在でも、崩落は続いており、非常に危険な状態です。主稜線の入り口には大山遭難防止協会が縦走禁止の立札を設置しています。登山者の安全を守る為ですから、ご理解をいただきたい点です。

(大山・日野川・中海学テキストブック、大山自然歴史館資料参照)

大山は、西は女的、北と南は男的に見えるってどういうこと?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局

大山は見る方角によって様々に変化します。
伯耆町側から見る西側の山容は、別名「伯耆富士」を一番に現すゾーンで、火山の原形を残す、なだらかなすそ野を形成し、柔らかく美しい山容を描き出しています。
そして江府町、日野町あたりから眺める大山の南壁は、北壁同様はげしい崩壊で険しい山ひだを作り、無数のガレ場や沢を作っており、大ノ沢、一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢は大規模な崩落沢で大量の土砂が流下しています。
ダイナミックな南壁の下には、なだらかなすそ野が広がり、針葉樹、ブナ林などの森が広がります。

ゆえ西側はやさしく柔らかな「女山」、北と南側はダイナミックで尖った感じの「男山」。そう表現することも可能なワケです。

これは解体期の火山地形の典型的な景観で、中国地方最高峰にふさわしい山容とも。
新緑や紅葉の名所で知られる「鍵掛峠」では、露出する岩肌と色ついた緑や赤の調和が美しく、毎年たくさんの観光客や地元住民で賑わいます。

参考までに、いろいろな角度からみた山並みもご紹介します。

●孝霊山(こうれいさん)
孝霊山は大山町と米子市(淀江町)の境界にある神秘なる山で、その標高751m、瓦山(からやま)、韓山(からやま)との別名があります。大山火山の側火山で、山体を構成する岩石が比較的新しいことから、新期大山の活動初期に寄生火山として形成されたものとの見られています。
麓には弥生時代の大規模集落として有名な「妻木晩田遺跡」や「伯耆古代の丘公園」があり、神秘なる山との由縁は、その昔、高麗の国の人たちが大山と背比べをするために運んできた山、との伝説があることからそう語り継がれています。

●三鈷峰(さんこほう)
海抜1516mの三鈷峰は、大山の主峰「弥山(山頂)」から尾根づたいで北東約1kmの場所にあるとがった三角錐状の孤立峰です。新期大山(約20万年前〜約2万年前)の活動期にできた溶岩円頂丘で、噴出時には大量の火山灰も放出されたとみられていますが、その北西斜面は多雨量をもたらす冬の季節風の影響で烈しい崩壊現象が進んでいます。古来より修験の行場として知られ、その名は仏具の「三鈷」に似ていることからそう名付けられたそうです。

●烏ヶ山(からすがせん)
大山南東側にある側火山の一つで海抜は1386m、原地形は約2万年前の噴火による溶岩円頂丘によるものと見られています。
その後の烈しい崩壊や侵食により、急峻な山容を描き出していますが、活動期の火山灰は、広く大山の東、南方にも広がっており、火山砕屑流は旧侵食谷を埋め、鏡ヶ成(かがみがなる ※江府町)、下蚊屋(さがりかや ※江府町)、笹ヶ平(ささがなる ※江府町)などの高原面を形成。山の名は修験道と天狗、烏信仰との関連説があります。

●鍔抜山(つばぬきやま)
大山の北方3kmのすそ野斜面に突出する新期大山の寄生火山で、溶岩円頂丘の原形をとどめ、青灰色の紫蘇(しそ)輝石、角閃石などから形成されている海抜705mの山です。
風化などの状態から察するに、同じ寄生火山でもある鈑戸(たたらど)山、鍋山などより新しいと考えられており、東方の一息坂峠との間には、山腹の低木雑木林を距てて香取地区が広がっています。

大山にはお地蔵さまが多い。なぜ?

A

回答者/ガイドボランティア・斉藤さん

大山寺によると、奈良時代養老年間(約1300年前)出雲の国玉造りの人で俊方と云う方に依って山が開かれました。「選集抄」によると俊方がある日鹿を追って大山に入り、みごと鹿を射止めたが、それは鹿でなく地蔵尊であったそうです。
俊方大いに殺生の罪ふかいことを悔いて出家し、その名を金蓮と改め庵を結んで地蔵尊をまつったと書かれ、又「大山寺縁起」にもほぼ同じ説話がのっています。
その為なのか、道中には石地蔵が数多く残されています。地蔵の寄進は山陽地方からが多く、また京の仁和寺に住む僧が大山の地蔵菩薩を拝むと、霊験があったとも言われています。また、江戸中期以降、一町(約109m)ごとに置かれた一町地蔵は参拝者にとってありがたい道知るべともなりました。

2011年2月22日、大山町公民館主催で、杉本良巳氏を講師に迎え「大山の地蔵信仰」をテーマに大山学講座の講演がありました。
奈良時代、平安時代には地蔵信仰は無かったようですが、その頃は阿弥陀如来がおられ地獄に落ちる前に救ってもらえたからそうです。
しかし、平安時代末期には武士が起こり、世の中が乱れ、人間は例外なく地獄に落ちるという考え方が広まりました。一度地獄に落ちた人を、阿弥陀如来は救えません。
そこに地蔵菩薩が現れ、地蔵信仰が始まったそうです。
地蔵信仰のもう一つの側面として、地蔵の口を借りて、人としての生き方を説くことが、いろんな説話として残っているそうです。

(ご本人のブログより)

大神山神社奥の宮の隣にある下山神社に、
白ギツネが現れるって本当?

A

回答者/ガイドボランティア 上橋さん

大神山神社奥宮の東側にある建物が下山神社です。平安時代後期の創建と伝えられていますが、大神山神社奥宮と同じ文化2年に再建され、津和野藩主であった亀井矩賢が寄進したものです。
この神社にまつられているのは備中(現在の岡山県)の渡辺源吾照政(わたなべげんごてるまさ)の怨霊とされています。照政は、大智妙権現に毎月かかさず参拝していたそうですが、ある時参拝途中に殺されてしまい、下山に埋められました。そこに白ギツネが現れ怪事を起こし、自分を祀るように言ったことからこれを鎮めるため、まず南大山にある文殊堂の近くに祀られたのち、現在の場所に移されたと言われています。

文献には残っていないようですが、口伝として大山の人には伝わっていたようですね。

標高500mあたりから見上げると、
「大山」の文字が見える時があるってホント?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局



雪がある季節にまれに見える(ような気がする)本当の話です。
ただし見えるポイントは限られていて、しかもガスがかかっている日は見えません。
オススメは、どんぐり村付近の駐車場あたりが狙い目です。

写真は大山観光局の職員が撮影したもの。
大山って文字、みなさん確認できますか?

博労座という地名、どんな意味?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局

大山寺は平安末期から牛馬信仰が盛んで、その始まりは大山寺本尊の地蔵菩薩が牛馬の守護仏であるとされ、牛馬安全の守護札を施与したことから始まったそうです。
この札を受けようと、人々は牛馬に荷物を乗せて大山寺を訪れるようになり、互いの牛や馬を比べて交換するようになったことから牛馬市へ繋がっていったとされます。
組織的に発展したのは享保15年で、特権的同業組合の「大山博労座」が開かれたことにあるようです。博労とは、もともと馬の良しあしを見分け、馬の病気を治す人々のことだそうで、元は伯楽、博労、馬喰から来たとされ、全て「ばくろう」と読みます。
伯楽には医者の意味もありますが、のちに売買行為を行う商人を指すようになりました。

福島の「白河馬市」、広島の「久井牛市」と並んで日本三大牛馬市の一つとされた大山牛馬市では、1年に数回開催され、一度に3、4千頭の取引があったとされています。
市が開かれる時は富くじや芝居などで非常に賑わい、その様子は文献や絵にも多く残っていますが、
昭和11年春を最後に、昭和12年大山が国立公園になったことを受け長い歴史に幕を閉じました。
博労座という地名は現在も地元住民の間で残っており、大山情報館周辺の一部駐車場を博労座駐車場と指す場合もあります。

(大山・日野川・中海学テキスト、大山自然歴史館資料参照)

金門とはなにを指すの?金門、禁門?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局

大山寺縁起によると、孝元天皇の代に八大竜王が権現の神勅を奉じると、たちまちのうちに岩の間が切り開かれたということです。
その時、宝浄世界の金剛鳥が来てゲを唱え、知覚は「金門」と額に書いてここにかけたとある。

金門の「金」は方学としては西になるので、大智妙権現を中心とした西の門、また金門は「禁門」として、ここから霊域で、神のいますところとして一般の出入りを禁じるという意味もあったそうです。山陽方面では大山は死霊の赴く山としての信仰が強かったともいわれています。

以前は金門を通って上がり下りもできたそうですが、現在は防水工事により不可能となっています。

(大山・日野川・中海学テキスト参照) 

大山隠岐国立公園と、大山国立公園はなぜ名称が違うの?

A

回答者/大山町観光協会大山観光局

大山隠岐国立公園は、鳥取県・島根県・岡山県にまたがり、中国地方最高峰の大山から蒜山、毛無山を含む山岳地帯、三瓶山一帯、島根半島の海岸部分、隠岐諸島の4つの地域から成る変化に富んだ景観をもつ国立公園です。

大山国立公園は、昭和11年2月1日に指定され、その後昭和38年4月10日に隠岐島・島根半島・三瓶山及び蒜山地域が編入されて、大山隠岐国立公園に名称変更されました。その後、平成14年3月26日に毛無山地区や宝仏山地区も編入され、現在に至っています。

大山そばの特徴って?

A

回答者/大山王国 柄木さん

まずは大山そばの歴史から。
元々は奈良時代、大山寺の創建により山岳信仰の霊場として栄えたことから精進料理の一つとして食べられていたことがはじまり。今から約800年前、大山寺に「基好上人」と言うお坊さんがおられ、牛馬守護の守札を施与し「牛馬市」の礎を作ったとされていますが、この「基好上人は、広い大山の裾野を利用しての牛馬の放牧のほか、農作物の栽培にも積極的でそば作りも奨励。そば作りに重要な水も大山の伏流水を活用できることから、以来地元ではそば作りが盛んに行われる様になり、大山の牛馬市に集まった人達にもてはやされ「大山そば」として有名になったと伝えられています。

この大山そば。
特徴は「小麦粉2:そば粉8」のいわゆるニ八そばが基本。甘皮もたっぷり使用する挽きぐるみの製法により見た目は野趣あふれる黒っぽい色合いの田舎そばスタイルで、香りが強く、素朴な味わいが、僧坊の歴史に彩られるこの地の文化を「食」として象徴しているようにも。お隣りの出雲そばと同スタイルゆえその関連性もささやかれますが、その点についての書物などは残っている訳でもありませんのではっきりとしたことは回答できません。

「挽きぐるみ」以外の特徴として注目してほしいのがダシの甘さ。
通常よりも甘みが強く、これは当時この標高まで登ってきた商売人の人たちの疲れをとるためあえて味の濃いものを提供しようとした結果ではないかとの想像も。今では登山などを楽しまれた方の疲れを労うご当地グルメとしての役割を担うべきでしょうが、ここで大きな問題が一つ。
それは、この場所で栽培されるそばの質から、食べ方のスタイルが今もって確立されていない点。
例えば出雲なら「割子そば」、出石そばなら「皿そば」、岩手なら「わんこそば」、信州なら「ざる」といった「このそばならコレ」といったものが定着していないことが、お隣り出雲に比べご当地そばとしての地位を得ることのできない一番の理由なのかもしれません。

ただそんな大山そばにも時を経た今、少しの光が見えてきました。

それは2009年11月にはじまった認定制度。
鳥取県大山町大山の大山寺地区で、旅館や飲食店が提供するそばを「大山そば」のブランドに認定。県の補助事業を活用して、大山旅館組合と大山町観光協会大山観光局、大山恵みの里公社が2009年11月に認定制度を立ち上げたのです。

これまでは一部の店舗が真剣に取り組んでいるものの全体としての活動が何らなされていなかった「大山そば」。
地産かどうかもわからない、名前だけで何の中身もないご当地グルメとしての感が抜けない「大山そば」が、同地区の店舗での取り決めとして大山の裾野で栽培されたそば粉を使い、店側が大山そばの由来を掲示または説明できるといった活動をスタート。
これを機に、大山の肥沃な大地を生かした地産そばを使うだけでなく、ぜひ参画店舗全店が「手打ち」で提供できるスタイルを徹底。
そんな一つ上のハードルを目指してほしいと願うばかりです。

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