国指定史跡 大山寺旧境内
更新日:
2022年04月25日
平成28年6月17日に国の文化審議会から国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申された大山寺旧境内が、平成28年10月3日(月)に官報告示され、正式に国史跡に指定されました。
大山町内では、妻木晩田遺跡(大山町・米子市 平成11年12月22日指定)に次ぐ2番目、大山町単独では初めての国史跡となりました。
指定対象の名称
大山寺旧境内(だいせんじきゅうけいだい)
指定対象の所在地
鳥取県西伯郡大山町大山字中門院谷1番他85筆等
指定対象の面積
435,008.62平方メートル
大山寺旧境内の概要
~古くからの信仰の山である大山の中腹に位置する我が国を代表する山林寺院~
大山寺は山号を角磐山(かくばんざん)といい、中国地方最高峰、大山(弥山1,709m)の北面中腹に位置する山林寺院です。
大山は『出雲国風土記』に火神岳あるいは大神岳と記される古くからの信仰の山で、寺伝は大山の開山を養老2年(718)のことと伝え、『撰集抄』(建長2年<1250>頃成立)は、8世紀後半の称徳天皇の頃、出雲国造俊方が地蔵菩薩を大智明権現(だいちみょうごんげん)として祀ったと伝えています。平安時代後期の『新猿楽記』に修験の山と記され、『梁塵秘抄』には「四方の霊験所」の一つにあげられています。文献資料や発掘調査等の成果から、大山寺は中世に最大規模となったことが知られています。
近世に幕府から三千石の寺領が安堵され、西明院、南光院、中門院の三院の上に本坊である西楽院が支配する一山三院四十二坊の体制をとりました。そして、牛馬の守護神や祖霊神と結びつき、広く民衆の信仰を集めました。明治維新で寺領を失った大山寺は、明治8年(1875)に寺号廃絶の上、信仰の中心であった大智明権現社が大神山神社奥宮に定められ、これにより神仏習合の大山寺の歴史は幕を閉じました。寺号復活が認められたのは明治36年(1903)のことです。
旧境内には近世以前の建造物が残り、廃絶した子院(僧坊)跡にも石垣や土塁、それらを結ぶ参道が良好に遺存しています。
町教育委員会で取り組んだ総合調査の結果、我が国を代表する山林寺院のひとつであることが明確となったことから、重要であると評価されました。
遠景写真
大山寺旧境内 遠景
大智明権現社写真
大神山神社奥宮(旧大山寺本社 大智明権現社)
西楽院写真
旧大山寺本坊 西楽院跡
阿弥陀堂前写真
大山寺阿弥陀堂への参詣道沿いの僧坊跡
利寿権現写真
利壽権現(りじゅごんげん)社正面石階段跡
お問い合わせは商工観光課 文化財室
〒689-3332 大山町末長500
電話0859-53-3136